「只見線」の全通に全身全霊をかけた田中元総理の先見
2017年04月27日
本誌4月号で既報のJR只見線の上下分離方式での復旧が3月27日、正式に決まり、沿線の魚沼市の関係者から喜びの声が湧いた。平成23年7月の豪雨で寸断し会津
川口・只見間を代行バスが走っている。今後はバス路線への転換ではなく、鉄道を復旧し存続させることになった。平成32年には鉄路が敷設される見通しだ。
只見川の電源開発と鉄道敷設
昭和46年の全通以来、赤字路線と危ぶまれてきた只見線だが、JR東日本は「地元の意向を尊重し対応を検討したい」としており、近く、最終判断する見通しだ。
肝心の復旧費用は約81億円で、3分の1はJRが、残りは県や地元自治体が負担。線路や駅舎は地元自治体が保有し、運行をJRが担う「上下分離方式」を採用し、運営費の年約2億1000万円は7割を県が、残りを会津地方の17市町村が負担する。
只見線復旧を願う市民グループ「だんだんど~も只見線沿線元気会議」(横山正樹会長)は、「これまで以上に只見線を活用して地域活性化が図れるように、いろんな事業を進めていく計画だ。
只見線の全通に全身全霊をかけられた田中角栄元総理の思いを継承し、観光線としても世界に誇れる只見線に育てていきたい」と意欲を語った。
かつて只見線全通期成同盟会長として、地元民の期待を一身に背負った田中元総理は、全
通した年の冬、越南タイムズのインタビューに次のように答えている。
「明治5年、鉄道は陸運の王者として誕生した。以来、鉄道の発達は日本国の発展であったといっても過言ではない。
〝鉄道がほしい〟われわれの曽祖父や祖父がそう叫んだそのときから〝鉄道只見線〟の長く苦しい運動は始まっている。
早期着工全通が沿線住民の切実な願い事であり、その促進運動は熱烈なものだった。
その中にあって、多くの人が〝鉄道只見線〟の誕生に立ち会った数限りない人と時間、これらの集積を、私は絶対に忘れることができない。
いま只見線は〝へき地〟〝豪雪地帯〟というような所を通っているが、こういう所が必ずや新しい時代の〝宝庫〟になる。
今後10年、15年後になって振り返ったとき、この鉄道の開通の意義は非常に大きいものがあるはずだ。
只見線を赤字盲腸線だという連中もいるが、まずは観光線として広く知られることが大事だ。あれだけの秘境を走り抜ける鉄道は只見線をおいてほかにない」。
それほどまでに田中元総理が政治生命をかけた只見線の魅力とは何なのか。
昭和36年3月31日発行の『守門村史』にこう書いてある(抜粋)。
「国鉄只見線の小出・大白川間が開通したのは、昭和17年(1942)11月1日である。小出・只見間の鉄道敷設は、鉄道施設法が改正されて以来、機会あるたびに請願された。帝国議会においては、大正12年(1923)以来〝各議会ニ於テ其請願ヲ採擇〟した。
これよりさき、鉄道省は大正9年(1920)実測をおこなった。広瀬郷民は、米・木材・薪・炭・鉱石・珪石等の移出と、地方の経済文化の発展のために、鉄道の敷設を強く要望した。…続きは本誌に