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2024年11月21日

理研と田中元総理の浅からぬ関係

2016年01月27日

旧理研コンツェルンの大組織をバックに、初めて衆院選に立候補した角栄。屈辱の敗北と仲間の裏切りが、政治家の道へ進むバネになった。

 

3億円と引き換えに立候補

 

昭和21年1月7日、柏崎市の星野一也宅を、1人の青年が訪れた。弱冠27歳。田中土建工業社長の田中角栄である。当時、星野は柏崎工場を皮切りに、新潟県下に建設された理研ピストンリング4工場の最高責任者を務めていた。それまで角栄は何度か星野家を訪れていたが、その日はいささか雰囲気が違っていた。松の内ということもあり、正月酒となった。少し酔いが回ったころ、角栄は思いがけないことを口走った。「星野先生、おれ、立候補する」「なんだと?」「総選挙に出ることにしました」「馬鹿な、やめれ、やめれ!」星野は手にした杯を落としそうになった。「いや、もう、決めたんです」角栄は興奮気味に言って、杯の酒をぐいと飲み干した。「どういうつもりか?」選挙嫌いの星野は目をむいた。しかし、角栄は動じず「実は大麻唯男先生のお取り計らいで、日本進歩党の公認候補にしてもらったんです」と胸を張った。日本進歩党というのは、第2次世界大戦中、徹底抗戦の立場を取る東条英機内閣、小磯邦明内閣、鈴木貫太郎内閣を支持した大日本政治会を母体として結成された保守政党。民政党最後の総裁であった町田忠治を総裁として、島田利雄、大麻唯男、斉藤隆夫らが中心となった。当時、大麻は田中土建工業の顧問の立場にあったことから、熱心に角栄を口説いたのである。

 

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そのいきさつはこうだ。「私はそのころ牛込南町の高台にある洋館に住んでいた。私の会社には昭和18年ごろから大麻唯男、白根松介、岩崎英祐という顧問が3人いた。その後、正木亮(のちに顧問弁護士)を加えて4人になるのである。その年の11月のある日、大麻さんから新橋の”秀花”」という料亭に呼ばれたので、いってみた。小さなかどの家で、家の中はひと気もなくガランドウとしていた。大麻さんは道具もじゅうたんさえもない寒々とした洋間の奥にいすを一脚だけおいて、それに腰をかけていた……」(『私の履歴書』)。

 

このとき大麻は角栄に次のような話をした。占領軍は大日本政治会の解散を命じた。しかし、年明けには衆議院総選挙が行われることになっており、それに間に合うように新政党として日本進歩党を結成したが、党首問題でもめている。宇垣一成と町田忠治の2人が総裁の候補者だが、ともに譲らない。そこで、選挙を間近に控えて選挙資金の300万円(現在の価値で約3億円)作ったほうを総裁にすることになった。自分は町田を推している。「田中君、いくらか出してくれないか」と大麻は言った。角栄は「いいですよ」と答えて、相当額の政治献金をしたのである。

 

それから半月後、大麻から「こんどの選挙に立候補しないか」と打診された。そのとき、角栄は代議士になる気はなかったので一度は断ったが、さらに重ねて話があったため、田中土建工業の監査役をしていた塚田十一郎(のちに新潟県知事)に声をかけた。だが、塚田もまた首を縦に振らなかった。その後も、大麻の側近といわれた野田武夫(衆院議員)、唐沢俊樹(衆院議員、のちに法相)らから説得され、次第にその気になってきた。

 

「私はしまいに、いくらくらい金が必要ですかときいたら”15万円出して、黙って1カ月間おみこしに乗っていなさい。きっと当選するよ”。私がこの一言に迷った結果、進歩党公認候補として衆議院議員に立候補の冒険をあえてするはめになるのである」(『私の履歴書』)。

 

出馬を決めた角栄は、新年が明けるとすぐに、塚田十一郎を連れて、新潟市へ出かけた。星野一也に会う前のことである。新潟市を訪れるのは小学校6年生の修学旅行以来だった。その日、角栄は、大麻から指定された選挙世話人の佐藤芳男代議士に会い、新潟でも有名な「玉家」という料亭の奥座敷で、総選挙についての講義を受けた。いい気になって杯をあけていたら、翌々日4日、占領軍から公職追放令が発せられて大騒ぎになった。そのため、占領軍命令による資格審査が手間取り、選挙の告示が行われたのは予定よりも2ヵ月遅れの3月11日で、投票日は4月10日までずれこんだ。

 

選挙参謀たちの裏切り

 

角栄が柏崎の星野一也を訪問したのは、理研コンツェルン総帥の大河内正敏の命を受けて、昭和7年7月に鋳物職人1人と女工18人からスタートし、ピストンリング工場を新潟県下で飛躍的に発展させたこの人物の支持を取り付けるためだったのである。…続きは本誌にて

 

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