理研と田中角栄元総理 浅からぬ関係
2015年11月27日
科学史に残るスキャンダルとなった「STAP細胞問題」は、良くも悪くも理化学研究所の実態を全国に知らしめた。
その第3代所長大河内正敏の資金と組織力で、国盗りの野望を果たした田中元総理の知られざる背景に迫る。
田中家の恩人大河内正敏
「毎年、お盆のころになると、田中角栄元総理の長女真紀子さんが、私どもの元へお見えになり、理事長はじめ関係者と歓談されたあと、新座市の平林寺にある大河内正敏博士のお墓にお参りされるんです。これは毎年恒例のことで、お盆近くになると、私たち広報室員は、平林寺の大河内正敏博士のお墓の掃除をするのが習慣になっています」と話すのは、国立研究開発法人・理化学研究所(埼玉県和光市・松本紘理事長、以下、理研)広報室の富田悟(55)である。
科学史に残るスキャンダルとなった「STAP細胞問題」が一つの帰着点を迎えた今年4月、理化学研究所は、独立行政法人から国立研究開発法人へと衣替えし、新たなスタートを切った。日本初の民間研究所として、財団法人理化学研究所(以下、理研)が設立されたのは大正6年(1917年)3月20日で、来年、節目の100周年を迎える。その記念事業を担当する富田は次のように話す。
「真紀子さんは、お見えになるたびに、父角栄が、生前、大河内正敏博士から受けたご恩は一生忘れませんと、私たちにご挨拶されます。かつて国政の場で、歯に衣着せぬ言動から烈女と揶揄された真紀子さんのイメージとはかけ離れたお姿で、その落差は、ある種、感動的といったら、ご本人に失礼でしょうか。もちろん、私たち理研の社員は真紀子さんの大ファンになりました」
国策の中心となった柏崎
理研で生まれた研究成果を社会に還元する役割を果たした理研コンツェルン(産業団)。最盛期には63 社121工場を数えた。この理研コンツェルンの中核をなしていたのが、大河内正敏によって設立された理化学興業株式会社である。
大河内は資源に乏しい日本の現状を鑑み、科学において国家の産業基盤をなす「科学主義工業と農村工業論」を唱え、理化学興業が理研コンツェルンの先駆となる「アドソール工場」を建設したのは、当時、国鉄柏崎駅前にあった西川鉄工所(現・(株)サイカワ、西川正男社長)の敷地内だった。それを機に、柏崎は、大河内が提唱した「農村工業」発祥の地として全国に注目されるようになったのである。
その出発点となったのは、古代から柏崎刈羽地方で産出された「石油」だった。「石油発祥の地柏崎と大河内正敏博士の絆は日本の科学史を語る上で、重要な1頁となります。その柏崎を故郷とされる田中角栄元総理と、大河内正敏博士との関係を抜きにして、日本の政治史は語れないでしょう」と富田は力をこめる。…続きは本誌にて