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2024年11月22日

愚直に生きた北越急行「はくたか」時代を振り返る

2015年08月27日

北陸新幹線の金沢駅延伸で北越急行(魚沼市・渡邉正幸社長)・ほくほく線を走っていた特急「はくたか」が“退職”した。勤続18年。もたらした利益は毎年約10億円。功労者が退職したことで同社は赤字転落が確実視。会社の“余命”は30年とも言われている。これまでの「はくたか時代」をどう生き、これからの時代をどう凌いでいこうというのか。

 

開業までの紆余曲折

 

ほくほく線は、JR上越線六日町駅とJR信越本線犀潟駅とを結ぶ第三セクター鉄道である。途中のJR十日町駅で同飯山線に連絡する。

 

今年3月14日に北陸新幹線が富山・石川まで延伸したことを受け、それまで北陸方面客の足として18年間働いてきた特急「はくたか」が廃止された。北越急行が大転換期を迎えた瞬間だった。

p54

 

 

同社とほくほく線の歴史、今後の運営について、大谷一人営業企画部長のコメント、ならびに「北越急行“はくたか”の時代~都市間輸送の使命を果たした北越急行~」(北越急行・大熊孝夫前社長寄稿「鉄道ファン」2015年3月号。引用箇所は〈 〉で表記)を参考文献に振り返る。

 

魚沼と頚城地方を結ぶ鉄道建設運動は昭和6年まで遡るという。同43年に六日町~十日町間が、同47年には十日町~犀潟間がそれぞれ着工。国鉄の地方路線として建設が進められた。

 

同59年、日本国有鉄道経営再建促進特別措置法が施行。国鉄民営化に伴い、赤字地方ローカル線(具体的には輸送密度1日4000人以下)は私鉄か三セク、またはバスへの転換を迫られた。当時は未開通だった「ほくほく線」は、想定輸送密度が1日1000人程度とされ、建設予算は凍結、工事の中断を余儀なくされた。

〈半世紀にもわたる鉄道敷設運動を推し進めてきた沿線住民からみれば、橋脚も完成しトンネルもほとんど掘削が終わっている姿が目の前にあ

れば、工事中止という事実を素直に受け入れることはできない。〉

 

沿線の熱意が県など行政を動かし、同59年に第三セクターとして北越急行を設立。同時に鉄道事業の免許を申請し、翌年に工事が再開された。

 

当時、上越方面と首都圏を結ぶ鉄道は、直江津―長岡―越後湯沢―高崎ルート(上越線)、直江津―長野―高崎ルート(信越本線)の2本であり、今もこれは変わらない。ただし、「ほくほく線」を経由すると直江津―高崎間を最短距離で結ぶことになる。

 

同60年の工事再開当時は、〈北陸地方の経済活動や観光需要が旺盛〉だったこともあり、北越急行経営陣は北陸―首都圏の旅客輸送に活路を見出そうと考えた。〈このまま地方ローカル線として開業に至っても、経営的に苦しい状況になることは間違いない。何らかの打開策を模索した
い。〉

 

当時、北陸新幹線は長野以降の着工が滞っていた。新幹線が金沢まで延伸するまでは、「ほくほく線」に特急を走らせることで、大きな利益を得られるのではなかろうか。そう考えたのである。同新幹線は最終的に、富山までの着工は平成13年、金沢までの着工は同17年まで待たねばならなかった。

こうした背景もあり…続きは本誌にて

 

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