全国最年少の生き残り 元特攻隊員の証言「大東亜戦争とその後」
2015年07月27日
大東亜戦争は日本による侵略戦争と流布されて久しいが、そうではないと否定する識者は少なくない。歪められたとされる東京裁判と特攻隊の生々しい実相をナカムラ取締役相談役である中村五郎氏が語る。(聞き手:本誌編集長 瀬戸田鎮郎)
中村 五郎(86歳)
昭和4年3月滋賀県生まれ。19年3月、第一期陸軍特別幹部候補生に全国最年少で合格、太刀洗陸軍飛行学校入校。20年5月「と号要員」(特攻隊要員)となり、陸軍伍長に任官。特攻訓練に明け暮れる。8月15日、特攻出撃式の途中で終戦。10月復員。21年、神戸経済大学(現神戸大学)に入学するも悪性のマラリアのため中途退学。22年、日本通運㈱彦根支店に勤務。26年3月、新潟県に移転。29年10月、新発田市で中村商店を創業。35年4月、㈱ナカムラを設立。39年、空調、給排水など設備工事業界に本格参入、従業員約180名、年間完成工事約80億円の会社に育て上げた。日本会議新潟県本部顧問、阿賀北支部相談役。全国最年少(当時16歳)の生き残り特攻隊員として、特攻隊体験談、大東亜戦争の背景・原因・意義、GHQの占領政策によって歪められた祖国日本の再生の道などについて、啓発活動に東奔西走している。
「侵略戦争」を否定していたマッカーサー
瀬戸田 マッカーサー元帥は東京裁判で先の大戦を「日本による侵略戦争」と規定し、断罪したわずか二年半後に「自存自衛の戦争」だったと、それまでの主張を百八十度転換してますね。何故なんでしょうか。
中村 一つは良心の呵責に苛まれたからでしょう。マッカーサーは自分をフィリピンから追放した日本に対し恨み骨髄だった筈です。日本への復讐心に燃えていたと思いますょ。GHQの最高司令官だった彼の占領政策は日本の伝統文化や武士道精神を完膚なきまで解体することに力点を置いていたと思います。日本国憲法にしても僅か7日間で作らせたくらいですから。
瀬戸田 世界戦略を描いていた当時の米国にとって、日本潰しは自国の国益に沿う政策でしょうし、当時の国際感覚としては当たり前のことだったのかもしれません。肩を持つわけではありませんが。
中村 マッカーサーは昭和25年に米韓連合軍の司令官兼務となり朝鮮半島の戦線に赴いています。マッカーサーの極東戦略は朝鮮半島を「反共の砦」とすることでしたが、中国・人民解放軍の参戦によって総崩れとなってしまいました。いくら撃退しても、中国・北朝鮮軍は陣容を立て直しては、何度でも怒涛のように押し寄せてくるわけです。その理由は満州が彼らの兵へ い站たん基地となっていたからです。失えば滅亡するしか道がなかったからです。
その時マッカーサーは日本が置かれていた立場を理解したのだと思います。
先の大戦以前に満州に地歩をなんとか固めていた日本に米国は満州からの撤退を要求しました。要求を受け入れない日本に対し米国は経済封鎖を断行しました。特に石油の禁輸は日本の産業を活動停止に追い込むことになりますから、一戦を交えてでも地理的に最も近い東南アジアに資源を求めるしかなかったのだと理解したのだと思います。
インドのパール判事は東京裁判の判決文書で、アメリカが行った戦略物資の全面禁輸、在米日本資産の凍結という事実上の最後通牒「ハル・ノート」を突きつけられたら「モナコや
ルクセンブルグのような小国でも武器をとって立ち上がったであろう」と書いていますね。日本は追い込まれたのです。自存自衛の戦争だったのです。
瀬戸田 マッカーサーは満州でも日本に対する戦略と同じ事をやろうとしましたね。海上封鎖と空爆です。…続きは本誌にて