元番記者が語る 田中総理誕生の一部始終と母フメの教え
2013年02月28日
「この世はかごに乗る人、かつぐ人、そのまたワラジを作る人」と言ったのは田中角栄元総理である。今果たしてこの言葉を理解している政治家がいるだろうか。「決断と実行」をスローガンに、天下取りをした男の素顔に迫る。
54歳の若き総理誕生
昭和47年7月12日の朝、誠心会第11期生の金子清一は、上野駅から特急「とき」に乗った。行く先は越後平野のほぼ中央に位置する新潟県刈羽郡西山町坂田(現・柏崎市)。一週間前の7月5日、この町で生まれた田中角栄が、54歳という若さで、日本国第64代内閣総理大臣に就任したのである。そのとき金子は読売新聞大阪本社の文化部に所属していたが、同社への就職を斡旋してくれた大恩人の晴れ姿を取材したいと上司に願い出て、5ヶ月間の取材活動を許可された。社会部でも、政治部でもない金子が、たとえ期限付きとはいえ、田中番記者の一員に加えられるなど異例中の異例だった。「入社時の身元保証人が田中先生だったことで過保護に扱われたのでしょう」と金子は苦笑する。金子が誠心会に入ったのは、父幾次の従兄弟で、越山会きっての知恵者と言われた富所四郎・南魚沼郡会長の口利きである。
7月4日に行われた自民党総裁選で、田中は、宿敵福田赳夫に92票差をつける282票を獲得して、総裁の座を勝ち取った。しかし、第1回目の投票では、2位の福田との差がわずか6票という、田中にとっては予想外の結果が出た。開票結果が読み上げられたとき、田中は「おっ!」と声を上げ、椅子から30センチほども飛び上がったように、金子の目には映った。新聞各紙は最低でも25票以上の開きになると予測していた。田中本人はもっと開くと胸算用していたはずだった。
金子の横にいた朝日の記者が「おい、こっちの読みが完全に外れたぞ。決選投票ではもつれるかも知れないな」と青ざめた顔で耳打ちしてきた。福田陣営が死に物狂いの追い上げを見せたのだ。総裁選の前夜、福田は「クチ田、ハラ福を信じる」と番記者たちに語っている。口では田中に入れるというが、実際の投票では福田に入れる人間に期待するという意味だった。結果は「ハラ福」が予想以上の人数だったことで、さすがの田中も肝をつぶした。…続きは本誌にて