地元財界重鎮が語る、田中角栄と柏崎市の“蜜月時代”
2012年12月26日
―「リケン」を「利権」に変えた天才的錬金術
昭和19年、田中は理研工場の移転工事を請け負い、1600万円の現金をカバンに詰めて朝鮮に渡った。現在の貨幣価値で70億円弱。戦況悪化により工事は中断し、田中は残金をカバンに詰めて帰国。その金は「金権政治」といわれる田中の「原資」になった。
盟友西川弥平治とリケン柏崎
「私たち柏崎の人間が田中角栄元総理について語るとき、理研(財団法人・理化学研究所、以下“理研”)の三代目所長として、柏崎の近代草創期に、経済振興の核となる機械産業を定着させた大河内正敏博士のことを説明する必要があります。しかし、昭和は遠くなりましたから、昭和を知る人々の記憶も遠くなり、むしろ知らない人のほうが多くなってきました」と語るのは、かつて県議会議長も務めた西川勉氏。
西川氏は、県議引退後、柏崎市に立地する企業グループの会長として、低迷する地域経済の活性化に向け腐心している。地元実業家だった父の弥平治氏は柏崎への理研誘致の先鋒として活躍。柏崎市議、県議、参議院議員時代を通して、田中角栄元総理とは盟友と呼び合う関係にあった。
「西川弥平治さんを初めて知ったのは、理研関係会社として、比角自転車という小さな会社をつくった頃で、西川さんはそこの社長か重役だったと思う。小規模の分散工場。農村工業の草分けであった大河内正敏先生の仕事で柏崎へ何度か来た。西川さんとも随分長い知り合いである。世の中は皮肉なもので、私が昭和21年の選挙に出たとき、私は進歩党、西川さんは鳩山自由党。民主党の結成(1947年)で一緒になるまでお互いに馬鹿を見たものだとつくづく思う。理研関係を二分して星野、田上両氏は進歩党の私へ。西川氏は自由党の佐藤三千三郎氏へ。しかし、それも夢となる。西川さんが参議院に打って出るとき、全く二人は一緒であった。私はいまそれを心から喜んでいる」(『西川弥平治伝』)