子供のイジメは「戦隊モノ」が原因だった⁉
2025年03月27日
「いじめ」はいつから社会問題化したのか。「現代学校教育大辞典」には「1970年代の中頃から頻繁に報告されるようになった」と記されている。
ちょうどその頃、絶大な人気を誇った東映の「任侠映画」、「第2期 ウルトラマンシリーズ」、「第1期 仮面ライターシリーズ」が終わった。1975年のことだ。代わりに「スーパー戦隊シリーズ」が始まった。
この奇妙な一致には何か因果関係があるのか。それとも偶然か。大学等の「教育研究」では議論されない「いじめ」に関する新たな視点を提供する。( 本文中敬称略)
正義の原型「任侠映画」中心には「高倉健」がいた
「235本」―。これは東映が1963年から72年までに制作した「任侠映画」の本数である。単純に割ると年間26本ものペースで撮影していたことになる。「ヒット」というレベルを超えた、歴史的な「社会現象」だった。
スターも綺羅星の如く誕生した。鶴田浩二、若山富三郎、藤純子などが有名だが、中でも圧倒的な存在感を示したのが高倉健だった。
1955年。高倉健は映画プロデューサーのマキノ光雄にスカウトされて東映に入社した。
翌年、「電光空手打ち」で主役デビューし、1963年には「人生劇場 飛車角」で任侠映画スターとして頭角を現す。
高倉健の人気を不動のものとしたのが1964年に始まる「日本侠客伝」シリーズである。
高倉健主演の仁侠映画には、特徴的なパターンがあった。
敵対する強大な組織から嫌がらせを受ける高倉健が、耐えに耐えて、最後には一人で敵に立ち向かうという筋書きだ。
池辺亮などが「ご一緒ねがいます」と加わる演出もあったが、「一人で巨大な組織に立ち向かう」という「男の美学」がストーリーの中心に据えられていた。
「自己犠牲」「孤独」「アウトロー」「義を貫く」という生き様が、当時のベトナム反戦運動、全共闘運動に向かう学生の心に響き、不条理に耐えて弁明もしない生きざまが、サラリーマン世代の心をも鷲掴みにした。
高倉健は俳優としてストイックなイメージを「任侠映画」で確立することに成功し、東映の看板スターとなった。
高倉は自分の映画を観るために、お忍びで映画館に出向いたとき、驚愕の光景を目にする。
多くのお客が、興奮状態でスクリーンに向かい拍手喝采し、主人公になりきって、映画館から肩で風切り出ていく姿を見て驚いた。なぜそこまで影響を受けるのか理解できず、映画の持つ影響力の強さに恐ろしくなったと、インタビューで語っている。
この時代の「正義」は、間違いなく「任侠映画」がそのお手本となっていた。
だが、どれほど盛り上がったブームにも終わりがくる。
深作欣二監督の「仁義なき戦い」が1973年に大ヒットすると、いわゆる「実録映画」の人気が高まり、「任侠映画」の熱は徐々に沈静化していった。
1 9 7 5 年1月15日、『日本任侠道 激突篇』を最後に、東映の任侠路線は終結した。…続きは本誌で