明治維新の立役者は坂本龍馬とコレラだった⁉
2022年01月27日
コレラは汚染された水や食べ物を通して感染すると激しい下痢や嘔吐を繰り返し、僅か数時間で死に至るという。幕末日本のコレラ流行のきっかけは、ペリー提督率いる黒船ミシシッピ号だった。発生から2年を経た今も猖獗を極める新型コロナウイルス。現今の惨状は約160年前の幕末・維新期に先取りされていた。
僅か1年のうちに日本を襲った3つの巨大地震の恐怖
コレラは元々インドの一地方にあった風土病であったが、広く認知されたのは19世紀後半のことで、イギリスが進めた植民地政策によって、世界各地に広がったといわれている。
このコレラは、日本では幕末の1858年から3年に亘って大流行し、江戸で10万人超の死者を出すなど猛威を振るった。歴史上、「安政コレラ」と呼ばれるもので、この感染拡大によって攘夷の機運を高める結果となった。
その元凶となったのがアメリカ合衆国海軍のフリゲート艦ミシシッピ号だった。
『ペリー提督日本遠征記』(合衆国海軍省編・大羽綾子訳)によると、このミシシッピ号は、嘉永5(1852)年11月24日、ヴァージニア州ノーフォークから、マシュー・ペリー提督の指揮下に、開国を促すことを目的とし、日本に向かって出航した。
排水量3220㌧、全長70㍍。ペリー自身が提案し監督して建造された蒸気船で、歴史に残る「黒船」である。
ミシシッピ号は進路を南東に取り、アフリカ最南端の喜望峰を廻って、翌1853年1月24日にケープタウンに入港した。
さらに舵を切ってインド洋を渡り、シンガポールを経由して4月初旬には香港に着いていた。ここまで、4カ月半の行程だった。
そして、上海に向かい、ペリー提督はここで4隻からなる艦隊を編成した。
旗艦を、ミシシッピ号より新しい大型のサスケハナ号に変えた。船名は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州を流れるサスケハナ川から採られた。
サスケハナは、アメリカ原住民の言葉で「広く深い川」を意味し、当時としては最大クラスの巨艦だった。
ペリーが来航した下田港には、この艦を模した遊覧船「黒船サスケハナ」が現在も就航している。
サスケハナ号を旗艦としたペリー艦隊は琉球訪問や小笠原諸島の測量をしたあと、嘉永6(1853)年7月8日夕刻に東京湾に入り、三浦半島の浦賀に停泊した。このとき、ペリー提督はフィルモア大統領から、開国を促す徳川将軍への国書を久里浜で浦賀奉行松平伊予守に手渡した。
その後、さらに、幕府へ圧力を強めるため、ミシシッピ号を羽田沖まで進めてから、7月半ば、艦隊は琉球へ向かって出航した。
この頃の徳川幕府の狼狽ぶりを嘲笑する狂歌が詠まれている。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)、たった四杯で夜も眠れず」
上喜撰とは高級なお茶のことで「蒸気船」と掛けてある。ただし、実際にはペリー艦隊の蒸気船はサスケハナ号とミシシッピ号の2隻だけで、あとの2隻は帆船だった。
一旦、アメリカに帰ったペリーは、翌年の嘉永7(1854)年2月13日、今度は蒸気船3隻を加えた計7隻の大型艦隊を編成して、再び日本を訪れた。
外交交渉が始まり、3月31日には、日米友好、下田港と箱館港で艦船への物資供給、遭難船員の保護などを取り決めた日米和親条約が締結された。
下田では長州を脱藩した吉田松陰がアメリカ渡航を企て最初に接舷(船の側面を他の船や岸壁に寄せて付けること)した蒸気船がミシシッピ号だった。
松陰は5大洲(アジア、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ、オーストラリアの5大陸)を周遊しようとして陸に戻ったところを捕らわれ、長州で獄に繋がれるが、間もなく許されて松下村塾を開校。やがて尊王攘夷のカリスマとなって行く。
その後、艦隊は箱館、琉球と巡航し、7月に香港に戻った。日本訪問の大役を終えたペリーはワシントンに召喚され、イギリス商船を乗り継いで、インド洋、紅海、地中海を航海して、翌年1月、ニューヨークに寄港した。
ペリーがニューヨークに着く直前の嘉永7(1854)年11月4日と5日、日本ではマグニチュード8・4以上の巨大地震が2日連続で発生した。
東海地震と東南海地震、南海地震が連動して起こり、関東地方南岸から熊野灘、紀伊水道、大阪湾、四国にかけて大津波が襲い、1万人超の死者が出たとの記録が残っている。本来は嘉永年間に発生した2つの巨大地震は、安政東海地震、安政南海地震と呼ばれている。
大震災と黒船来航を国難と感じた朝廷は、地震の3週間後に嘉永から安政に改元した。
ところが、その10カ月後の安政2(1855)年10月2日、マグニチュード7前後の江戸湾直下型の安政江戸地震が起こり、またしても1万人を超える死者が出たのである。…続きは本誌