40年前とは隔世の感がある高校生進路の現在地
2021年10月27日
確定数値はまだ公表されていないが、本県の2021年3月高校・中等教育学校卒業生の大学短大等進学率(以下、大学進学率)は50%近くになりそうだ。20%だった40年前と比較すると隔世の感を覚える。その他にも短大進学者や就職者が大きく減るなど、本県高校生の進路は様変わりした。
40年前は半数が就職
40年前と言えば1981年(昭和56)。当時、本県にあった四年制大学と言えば、新潟大学(新潟市)、長岡技術科学大学(長岡市)、上越教育大学(上越市)の国立3大学に加え、私立の新潟薬科大学(新潟市)、日本歯科大学新潟歯学部(同)だけだった。
むしろ短大の方が多かった。新潟大学商業短期大学部、新潟大学医療技術短期大学部、県立新潟女子短期大学、新潟青陵女子短期大学、北都工業短期大学(以上、新潟市)、加茂暁星短期大学(加茂市)、長岡短期大学(長岡市)、新潟短期大学(柏崎市)。このうちの多くが現在、四年制大学に移行している。
県内高校卒業生は当時、県内四大・短大ともに約1000人ずつが進学していた(既卒生含む)。
表1を見ていただくと、当時は1学年3万1500人の高校生がいて、大学・短大に進学したのが6400人、うち短大が2千人、専門学校には4千人が進学し、1万6000人が就職していたことが分かる(全日制課程のみ)。大学進学率は20%。大学進学は亜流であり、半数以上が就職していた時代だった。
大学・短大の所在地を見ても分かるように、半数が新潟市にあった。しかも、新大以外は定員の少ない単科大学ばかり。県土の広い本県は、県内の大学と言っても限られた者しか行けなかったと言える。
一方で県内の高校は、普通科しかない学校の方が少なかった。就職者が多い時代だったから、進学校と言われるような高校にも商業科、工業科、農業科、被服科といった実業科が併設されていた時代だった。
「当時の高校生の親も多くは中卒、高卒で働いていた時代でした。親世代で大卒は県外に出ていて、県内にいた大卒の親は教員くらいでした。大学進学の必要性を感じられない親が多かったという環境に加え、農業、製造業、繊維産業の盛んな土地柄ということもあり、地元ですぐに働くのが当たり前という雰囲気のあった時代でもありました」(教員経験者)
当時の県内高校生が大学進学を考えた時、新大は「入りたい大学」だった。1981年の四年制大学志願者のうち、約26%が新大を志願していた。
「東大や京大を目指すような奴もいたけど、多くは新大を目指していた。地元の進学校から新大に進むことがエリートコースだなんて言われていた時代でしてね。一方で、県内生が定員の多くを占めるローカルな大学というイメージも強かったかな」
と話すのは50代後半の男性会社役員。当時は、「新大か首都圏私大」が主流で、「女子の多くは短大」の流れだったという。
センター試験の前身とも言える共通一次試験のスタートは1979年。その数年後から、新大は「入りたい大学」から「入れない大学」に変わっていったとか。
「共通一次試験導入後、偏差値至上主義に変わっていき、大学が序列化されました。学費の安さから私立大より国立大の人気が高いのはいまも昔も変わりませんが、当時は県内生の新大志願者数・志願率ともに年々、増えていきました。同時に新大の難易度もジワリと上昇。すると、新大志願者は増えるものの、1986年頃から県内生の合格者が減っていったのです。上がったと言ってもそんなにバカ高い偏差値になったわけでもない新大なのに、県内生の合格が難しくなったのは、県内生の学力が上がらなかったから。加えて首都圏私大も難化していった。1981年当時は県内に大学は少
なく、大学志願者も他県比で決して多くはなく、さらに高校生の学力が乏しかったために、大学進学率が20%前後と低迷していたのです」 (前出、教員経験者)…続きは本誌