「アオーレ長岡」脇の稲荷神社に建つ 罰当たりな石碑
2014年01月25日
2012年4月、JR長岡駅大手口に華々しくオープンしたシティホールプラザ﹁アオーレ長岡﹂。市民の新たな憩いの場として賑わっているが、この施設に隣接する形で小さな神社がある。そこに不可解かつ意味不明な石碑が建っていることを知る市民はまだほとんどいないという。
城跡に建ったアオーレ長岡
アオーレ長岡が建っている敷地には以前、旧厚生会館があった。老朽化した同会館を再開発するにあたって、長岡市は市役所機能の移転集約化を図るとともに、市民交流拠点の整備を目的とした建設プロジェクトに着手。
そして2012年4月、長岡市役所本庁舎をはじめ、市民交流ホールなどの交流施設を擁する同市にとって文字どおりのランドマークが完成。市民らの交流を想起させる「アオーレ長岡」と名付けられてオープンした。
アオーレ長岡の建設地においてはその昔、長岡藩が城を構えていたことは市民の間でも広く知られている。
長岡がかつて越後長岡藩牧野氏七万四千余石の城下町だったのはいうまでもない。
明治維新以前には長岡城の二の丸や勘定所があった場所だが、戊辰戦争によって城の大半が焼失。これにより土地は旧藩主の所有となり、町人らがそこで養蚕を営んだ。また鉄道が通ると長岡駅を中心に市街地が形成されていった。明治35年には、油田開発で莫大な利益を上げた宝田石油がこの場所に本社を建設。その後、同社が本社移転するなど紆余曲折があって跡地が長岡市に寄贈され、それ以降、市の関連施設が整備されるに至る。
こうしたことから長岡市はこのアオーレ長岡を建設するにあたって、戊辰戦争の苦難を乗り越えて復興を果たした先人たちの功績を称えるとともに、不撓不屈の精神を施設のコンセプトとして位置付けている。
同施設の東棟1階付近のオープンスペースに建てられた案内表示板には、以下のような説明文が記されている。…続きは本誌にて